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第2回十字軍
第2回十字軍(だいにかいじゅうじぐん、1147年〜1148年)はエデッサ伯領の喪失を受けて、教皇エウゲニウス3世によって呼びかけられた。 フランス、ドイツ国王の他、多数の貴族、司教、庶民の参加者を得たが、主要参加者がそれぞれ別々の思惑を持って、バラバラに行動したため、ほとんど成果を挙げられずに終わった。
背景
1145年、モースルの太守ザンギーの反攻によって十字軍国家のエデッサ伯領が奪われたとの知らせを受けて、ローマ教皇エウゲニウス3世は聖地救援の十字軍を呼びかけた。 この知らせにはプレスター・ジョンについての情報も含まれており、その救援も期待されたようである。
教皇の頼みで、シトー修道会の高名な神学者であり名説教家として定評のあったクレルヴォーのベルナルドゥスが勧誘説教を行い、フランス王ルイ7世と王妃アリエノール、ドイツ王コンラート3世、シュヴァーベン公フリードリヒ(後の皇帝フリードリヒ1世)の他、第1回十字軍には及ばないものの多数の貴族、司教の参加者を得た。 さらに庶民も熱狂し、ベルナルドゥスは教皇に宛てた手紙で、「一般庶民男子の8割が参加し、女しか残っていない。後家さんだらけだ。」と報告している。 ベルナルドゥスは騎士修道会の心身両面での戦いを評価しており、聖地への巡礼と戦いにより贖罪を行い、それを経た後に各人が世の中に福音を伝えることを構想していた。 彼の果たした影響のため、この十字軍は「聖ベルナールの十字軍」とも呼ばれる。
ただ、既にイベリア半島ではレコンキスタが佳境に入っており、イベリア半島方面やマルセイユ、ジェノヴァ、ピサの住人は、そちらに参加することが勧められ、また、ドイツ諸侯から希望された北方スラヴ人の征服も十字軍(北方十字軍)として認められた。
以上からも分かるように、この時には他の十字軍とは違い、エルサレム奪還という最終目的が無い(まだエルサレムは維持しており、直接的に攻撃を受けているわけでもない)ため、その目的が、エデッサ伯領を奪回するのか、ザンギー朝を攻撃するのか、エルサレム周辺の他のイスラム教国を征服するのか、イスラム教徒を片っ端から攻撃するのかはっきりしなかった。
また、キリスト教側の体勢は、ベルナルドゥスの調停にもかかわらず、ドイツ王コンラート3世とシチリア王ルッジェーロ2世が対立しており、結局ルッジェーロ2世は参加しなかった。 東ローマ帝国のマヌエル1世もイスラム教徒とのパワーバランスを保っており、新たな十字軍を歓迎しなかった。 さらにフランス王とドイツ王も行動を共にせず、それぞれバラバラに進軍した。

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イベリア半島
イングランド、ノルマンディーはスティーブン王の無政府時代のため、まとまった出兵は行えなかったが、各々の騎士達が、スコットランド、フランドル勢と共に船で出立した。 途中、リスボンを攻撃しているポルトガル王アフォンソ1世の軍に合流して、1147年10月にリスボンを攻略(リスボン攻防戦)した後、東に向かいフランス王と合流した。
進軍
ドイツ王は陸路を通って、ハンガリーからコンスタンティノープルにたどり着いたが、東ローマ帝国側の協力を受けられず、単独で小アジアを横断しているときにルーム・セルジューク朝軍に襲われ敗北を喫した。 その後、わずかな生き残りがエルサレムにたどり着いた。
一方、フランス王はドイツ王のたどったコースを後から追いかける形になり、同じように小アジアでルーム・セルジューク朝軍に敗れた。 なんとかアンティオキア公国にたどり着き、王妃エレアノールの叔父アンティオキア公レイモンからエデッサ伯領奪回を持ちかけられるが、断りエルサレムに向かった。

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エルサレム
ようやく、エルサレムで全軍集結したが、戦意は低く、既にエルサレムに来たことで巡礼の目的は果たしたと考えて、帰りたがるものが多かった。 また、現地の十字軍国家(旧エデッサ伯領、アンティオキア公国、トリポリ伯領、エルサレム王国)からの参加も無かった。
しかし、エルサレム国王ボードゥアン3世の元でアッコンにおいて軍議が行われ、政情不安で比較的弱いと考えられたダマスクスの地方政権(ブーリー朝)を攻めることになった。 エルサレム王国の多くの臣下たちは、これを馬鹿げた考えだと反対した。 ダマスクスはザンギー朝と古くから対立しており、また1140年にダマスクス領主ウナルがエルサレム王国軍の救援でザンギーの軍を追い払って以来、ダマスクスとエルサレム王国は同盟関係にあったためである。 しかし、エルサレムやアンティオキアとともに聖書にも登場する聖都ダマスクスを手に入れ、この遠征を正当化する成果としたい十字軍側に結局押し切られた。
ダマスクス攻撃
1148年7月23日、ダマスクス攻撃が始まったが、ダマスクスの領主ウナルは城の周囲の井戸や泉を埋め、対立していたザンギー朝の面々(後を継いだザンギーの息子、ヌールッディーンやその兄で彼とは対立していたサイフッディーン等)ほかさまざまなムスリム国家に救援を求めた。 さらに、西洋からの大軍の到来で動揺していたエルサレム王国はじめ土着十字軍国家に、「ダマスクス陥落の次は、十字軍国家を直轄化して取り上げるはずだ」と文書を送り離間策を行った。 そのため、元々数が少なかった十字軍はヌールッディーンらのムスリム軍やダマスクスの伏兵に悩まされた上、給水にも困り、さらなるムスリムの援軍の脅威を吹き込む十字軍国家の説得を受け、わずか4日後、何の成果も無くエルサレムへ撤退した。
エルサレムに戻った後、十字軍は解散し、それぞれ帰路についた。

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結果
ローマ教皇の主導で行われた十字軍の中で、最も成果の無かった十字軍と言って良い(第4回十字軍ですらカトリック勢力の拡大という成果はあった)。
十字軍は何の成果も挙げずに帰ったばかりか、対立していたダマスクスとヌールッディーンを協力させ、後にヌールッディーンにダマスクスを領有させシリアを統一させることになり、イスラム勢力の結集を助長した。
土着化した十字軍国家は、ムスリムながら盟邦だったダマスクスを失い、かねてから西洋人には妥協しなかったヌールッディーンのシリア統一によって圧迫される羽目に陥った。
イベリア半島では、リスボンを奪取し、レコンキスタに貢献した。
スラヴ人に対する十字軍はこの後も続くことになる。
西欧はこの失敗に脱力し、エウゲニウス3世とベルナルドゥスの権威は失墜した。 彼らが新しい十字軍を呼びかけても、もはや応じる者はいなかった。
第3回十字軍
第3回十字軍(1189年〜1192年)は、アイユーブ朝の始祖であり「イスラムの擁護者」と目されたサラーフッディーン(サラディン)により征服された聖地エルサレムを、ヨーロッパのキリスト教諸国が奪還するために開始された。
第3回十字軍の経過
サラーフッディーンによるエルサレム征服
1169年にエジプトの実権を掌握したサラーフッディーンは、1171年には宰相を務めていたファーティマ朝を滅ぼして自らアイユーブ朝を開くと、その後の彼はパレスチナの地からキリスト教勢力を駆逐するという信念の実現に生涯をかけて尽力した。 1174年にシリアを傘下に治め、十字軍王国の包囲体制を整えた。 1187年7月4日、サラーフッディーンはハッティンの戦いで十字軍に勝利し、10月2日にエルサレムが降伏してエルサレム王国は滅亡した。 この時、十字軍とは反対にキリスト教徒の虐殺は行われなかった。 一方、キリスト教勢力の拠点は、アンティオキア、トリポリ、ティール、マルガットを残すのみとなった。
教皇グレゴリウス8世による聖地奪回の呼びかけ
この事態に対して教皇グレゴリウス8世は、聖地奪還を目的とする新たな十字軍の派遣をイングランドやフランスに呼びかけた。 イングランド王ヘンリー2世とフランス王フィリップ2世(尊厳王)は領土問題を巡って戦争状態にあったが、要請を受けたことでこれを終結し、双方とも国内では「サラディン税」を課して十字軍編成のための資金とした。 しかし両国間の戦争はすぐに再開し、さらにイングランド国内ではヘンリー2世の息子リチャードが国王に対する反乱を開始していた。

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フリードリヒ1世の第一陣
神聖ローマ帝国の皇帝フリードリヒ1世(赤髭王)も教皇の呼びかけに答え、十字軍の第一陣として1189年に出発した。 フリードリヒはその途上、サラーフッディーンと秘密協定を結んでいた東ローマ帝国の皇帝イサキオス2世アンゲロスの敵対的行為に直面した。 このため十字軍は東ローマ領を急いで通過せざるを得なかった。 その後、1189年5月18日にルーム・セルジューク朝の首都イコニウムを占領した。 しかし1190年6月10日フリードリヒがキリキアのサレフ川で溺死してしまった。 彼らは数の上ではサラーフッディーンよりも多かったが、フリードリヒを失ったことから早くも解散してしまった。 一部の者は向かった先のシリアで戦いに敗れた。
リチャード1世とフィリップ2世によるアッコン征服
1191年、イングランド王リチャード1世(獅子心王)とフィリップ2世は共に海路ではあるが、関係が悪化していたため別々にパレスチナに到着した。 リチャードはその途上でキプロス島に滞在したが、その時東ローマ帝国から離反していた島の統治者から受けた扱いに怒り、5月末までに島全体を占領した。 その後、すでに有名無実化していたエルサレム王国の王ギー・ド・リュジニャンにこの島を売り払った。 一方、フィリップはティールに到着して、エルサレム王国の王位継承を主張していたモンフェラート侯コンラード1世と同盟を結んだ。
1191年4月、フィリップらは先のフリードリヒの敗残兵を加えてアッコンの攻囲を開始し、6月にはリチャードの軍が包囲に加わった。 アイユーブ朝軍は包囲を破ろうと試みたが撃退され、7月12日アッコンは陥落した。 しかしその後、十字軍側の3人の司令官の間に主導権を巡って内部抗争が起きた。 ドイツ人たちの司令官であったオーストリア公レオポルト5世は、リチャードやフィリップと同列に扱われることを欲したが、リチャードは占領した都市からレオポルトの旗を撤去した。 フィリップもまたリチャードに不満を募らせ、8月に帰国した。
リチャード1世とサラーフッディーンの休戦協定
8月22日リチャードはアッコン降伏時の協定をサラーフッディーンが遵守していないとして、拘留されていたムスリム3000人あまりを処刑した。 リチャードはエルサレムを攻撃するための出発地として港町ヤッファ(ヤッフォ)の奪取を計画した。 9月にアルスフを行軍していた彼らをサラーフッディーンが攻撃したが、リチャードはこの戦いで目覚しい勝利を挙げた(アルスフの戦い)。 1192年1月にはエルサレムへの進撃の準備が整ったが、サラーフッディーンは軍勢を増強し、都市を要塞化して待ち構えていた。 リチャードは2回ほどエルサレムに接近したが、サラーフッディーンの大軍を目の当たりにして軍を退いた。 7月に入るとサラーフッディーンがヤッファの奪還に動き出すも、7月31日の戦闘で数では勝っていたはずのリチャードの軍に敗れ、失敗した。
リチャードの軍勢は疲弊し、いつまでたってもエルサレムを落とせないことに対する不満や国へ帰りたいという不満が軍の中に渦巻いていた。 1192年9月2日、リチャードとサラーフッディーンは1年以上に及ぶ交渉の結果、アッコンを含みティールからヤッファに至る沿岸部のいくつかの港をエルサレム王国の管理下に置き、エルサレムはイスラム教徒の統治下に置くという最終的な休戦協定を結んだ。 また但し書きとして非武装のキリスト教徒の巡礼者がエルサレムを訪れることを許可するという条件も加えられた。 9月末、リチャードはイングランドに向けて出発し、第3回十字軍は終了した。
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