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十字軍の実態
十字軍は、キリスト教圏の諸侯からなる大規模な連合軍であった。 十字軍に参加した諸侯は、宗教的な動機と共に、戦勝時の利益への目算も当然あったであろうと考えられている。 宗教的な情熱が強かったはずの第1回十字軍ですら、エデッサ伯国やアンティオキア公国などの領土の確立に走る者が出ており、第4回十字軍に至っては、同胞のキリスト教(正教)国家東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリス(現在のイスタンブール)を攻め落としてラテン帝国を築くなど、動機の不純さを露呈している(しかも、同じカトリックの国であるハンガリーまで攻撃し、教皇に破門宣告されている)。
もともとはエルサレムの回復を目的としていた十字軍であるが、後には、キリスト教徒から見た異教徒やローマ教皇庁から異端とされた教会や地方の討伐軍をも十字軍と呼ばれるようになった。 このような例としてはアルビジョア十字軍などが知られており、ヨーロッパにおいても非難されることになる。
また、十字軍には軍人のみが参加したのではなく、従者のほかにも巡礼者や妻子、娼婦など雑多な人間が混じっていた。 騎士は巡礼者らの保護に努めたが、戦闘時には足手まといになる場面が見られた。
十字軍とともにエルサレムをめざす民間の巡礼者(武装巡礼団等)の運動も活発化したが、その純粋な信仰心が報われることはほとんどなく、途中で命や財産を奪われる者が多かった。 一方、彼ら武装巡礼団には、輜重の概念が無く、食料調達の略奪の為にムスリムやギリシア人の農村を手当たり次第に襲い、異教徒の皆殺しを叫ぶ狂信者もおり、小アジアや聖地周辺では大変恐れられた。 少年少女が聖地奪回を目指したが、奴隷として売り飛ばされるという悲惨な結果に終わった少年十字軍などの例もある[1]。
ローマ教皇庁は1270年から十字軍についての意見調査を行っている。 調査結果にはルイ9世の死は神の意思であるとするものや、不信心者は殺すのではなく改心させるべきとするものなど十字軍に否定的な意見が多数含まれていた。 また、犯罪者が刑罰から逃れるために従軍していることから、一般人から十字軍参加者そのものが罪人とみなされていること、名誉を重んじる者が参加したがらないということも明らかにされた。 十字軍が同じキリスト教徒に対しても行われたことは悪夢とみなされていた。 これらの調査結果を受けてグレゴリウス10世は聖地奪回のための新たな十字軍を計画しなかった[2]。

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その後
エルサレム回復を目指す本来の十字軍は1249年までで実質的に終わったと考えるべきであろう。 1291年には最後の拠点アッコンを失ってエルサレム王国も滅亡し、全てのパレスチナはイスラム勢力下に入った。
ただし、その後も小規模な遠征の事例があり、十字軍の名が冠されているものの(例:1308年のロドス十字軍、1344年のキプロス十字軍、1365年のサヴォイ伯十字軍、1440年ヴァルナ十字軍など)、本来の十字軍とは区別されている。 その後、1453年にオスマン帝国の台頭によって東ローマ帝国が滅ぼされると、ローマ教皇ピウス2世は熱心に十字軍を提唱し(1459年・1463年)、応じる国は少なかったが、1464年には教皇自ら十字軍の出発地とされたアンコーナに赴いている。 この地で教皇が逝去したため、直ちに遠征は中止された。
1683年の第二次ウィーン包囲失敗によるオスマン帝国の敗走によってローマ教皇は、オーストリア、ポーランド、ロシア、ヴェネツィアに神聖同盟を持ちかけている。 これは十字軍の名で語られていないが、意図するものがあった可能性がある。
現在のエルサレムは、事実上のユダヤ教国であるイスラエルの支配下にある。 1947年、国際連合によって東西に分割され、国際管理地域とされた。 しかし、1948年、第一次中東戦争で、西エルサレムをイスラエルが、東エルサレムをヨルダンが占領した。 1967年、第三次中東戦争で、東エルサレムもイスラエルが占領した。 2009年現在、西エルサレムはイスラエルが実効支配し、パレスチナが領有を主張する東エルサレムの占領も続けている。 イスラエルはエルサレムを首都としているが、国連を始め、大多数の国は認めていない(詳細はエルサレムの項目参照)。

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イスラム側の認識
イスラム教側では、当初は十字軍を宗教的な理由によるものとは思わず、単に野蛮で残虐なフランク人(当時の西欧人の総称)が侵略してきたと認識していた。 第1回十字軍により創設された十字軍国家も東ローマ帝国やアルメニアと同様なキリスト教徒の地方政権と考えられていた。
イスラム教徒の反撃の端緒とされるザンギーやヌールッディーンは大義名分として、イスラム教勢力の統一とキリスト教徒撃退を挙げるようになるが、主要な敵は他のイスラム地方政権だった。
イスラムの聖戦との認識が広まってきたのは、サラーフッディーンがイスラム勢力をほぼ統一し、エルサレムを陥落させる前後からで、第3回十字軍との戦いを通して確立されていったが、その後も、第6回十字軍の時のように、 状況によってはキリスト教徒と妥協や共存することに抵抗を持っていなかった。

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十字軍の影響
十字軍は、東方の文物が西ヨーロッパに到来するきっかけともなり、これ以降盛んになる東西の流通は、後のルネサンスの時代を準備することにもなった。 また近東地方の優れた城郭を実地に見た諸侯たちは各地でそれに倣って改良した城郭を建てた。 そのためヨーロッパの城郭は十字軍より古いものとそれ以後のものが一目で判別できるほどである。
十字軍の資金調達の必要から教皇や君主が徴税制度を発達させ、西ヨーロッパの封建領主は、衰退した。
東ローマ帝国は、1261年に復活したものの第4回十字軍によって受けた打撃から立ち直れずに衰退し、1453年の滅亡に至った。
西欧においては、十字軍は西欧がはじめて団結して共通の神聖な目標に取り組んだ「聖戦」であり、その輝かしいイメージの影響力は後日まで使われた。 後の北方や東方の異民族・異教徒に対する戦争ほか、植民地戦争などキリスト教圏を拡大する戦いは十字軍になぞらえられた。 また異国への遠征や大きな戦争の際には、それが苦難に満ちていても、意義ある戦いとして「十字軍」になぞらえられた。
西洋では17世紀以降、戦争を伴わない宗教的な運動をも「十字軍」と呼ぶようになり、以来さらに使われる範囲が拡大し、現在では大きな目標を掲げた単なるキャンペーンのようなものも、「ゴミに対する十字軍」「文盲に対する十字軍」などのように「十字軍」に例えられている。 「草刈り十字軍」は有名。 もっとも、十字軍の歴史の見直しやイスラム教徒に対する配慮などから近年では社会運動の名称などに使用されることは少なくなっている。
北欧においては、近代にスウェーデンがフランス革命や、ロシア帝国によるポーランドに対する弾圧に対して欧州諸国に十字軍を呼びかけている。 フランス革命においては、「反革命十字軍」と言われている。 しかし19世紀に入ると最早、十字軍の名の使用は時代後れとなっていた。
ロシア帝国皇帝アレクサンドル1世も、オスマン帝国に対する十字軍を構想している。
2000年3月12日、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は十字軍や異端審問などについて「異端に対する敵意を持ち、暴力を用いた。これらカトリック教会の名誉を汚した行いについて謹んで許しを求める」として謝罪した。 さらに、2001年には十字軍による虐殺があったことを正式に謝罪した。 これはカトリック教会にとって、十字軍の評価に対する大きな転換であった。
2001年のアメリカ大規模テロ事件では、ブッシュ米大統領が「this crusade, this war on terrorism(これは十字軍だ、これはテロリズムとの戦争だ)」と発言し、イスラム教の反発を受け撤回した。 しかし、ブッシュ政権によるアフガニスタン侵攻、イラク侵攻を「第十次十字軍」と呼ぶ者もあった。
反米思想の持ち主は「欧米の『十字軍』は、イスラムに対する戦争を開始した。 イスラム諸国に対する十字軍戦争に発展するだろう」とはるか昔の十字軍の話を頻繁に持ちかける。 しかしこれはあくまでもキリスト教主導国からの視点である。

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騎士
騎士は、もともとは、古代ローマの兵役で経済的に騎兵を提供するほどの財産を持っている者を指し示していた(エクィテス)。
中世ヨーロッパにおいては、重装騎兵が戦闘の主役であり、そのためには優れた技量と精神的、肉体的な鍛錬が必要だとされ、その資格を有するものに騎士という称号を与えるようになった。
騎士になるにはまず、7歳頃から小姓(ペイジ)となり、主君の元に仕え、使い走りなどの仕事をする一方で、騎士として必要な初歩的技術を学んだ。 14歳頃で従騎士(エスクワイア)となると、主人である先輩騎士について、身の回りの世話をはじめ、甲冑や武器の持ち運びや修理をも担当し、実際の戦闘にも参加するようになった。 20歳前後で一人前の騎士と認められると、主君から叙任を受け、金もしくは金メッキの拍車をつけるようになった。
叙任の儀式は基本的には、主君の前に跪いて頭を垂れる騎士の肩を、主君が長剣の平で叩くというものだが、騎士の戦士としての重要性が薄れると、かえって叙任の儀式は複雑化して、宗教色や騎士道精神といったものが強調されるようになり、聖職者が式に絡むことも多くなった。
騎士道においては一般にキリスト教的観念に基づく、忠誠、公正、勇気、武勇、慈愛、寛容、礼節、奉仕などが徳とされてきた。
当初は騎士は叙任されるもので、生まれついての身分・階級ではなかったが、騎士としての装備を維持する必要から封建領地をもった階層に固定され、やがて男爵以上の貴族の称号を持っていない者の称号となった(ナイト爵)。
16世紀以降、火器の使用により騎乗戦の意義が薄れ、また、馬や鎧、武器の調達に莫大な費用がかかることから、軍役を金銭によって済ますことが多くなり(軍役免除)、騎士は戦士としての役割を終えて、純粋な社会的階級となった。 現在でもイギリスなどでは、男爵、準男爵に次ぐ爵位として、ナイト爵が勲章システムと結びついて存在している。 別称は勲功爵、勲爵士ともいう。
騎士への敬称は主にSir(卿)という。 但し、騎士は中国や日本の卿に比べてはるかに低い階級(卿、太夫、士)であるため、Sirを卿と訳するのはあまり正しくない。 また、貴族の尊称Lordも同じく卿と訳されるため誤訳・誤用を招くこともある。
また、自らの力を試したり、ロマンチックな冒険を求めて方々を渡り歩く騎士を遍歴騎士と呼んだ。
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