ホーム >> 第1回十字軍2

第1回十字軍2
反ユダヤ主義との結びつき
十字軍運動の盛り上がりは、反ユダヤ主義の高まりという側面をもたらすことにもなった。 ヨーロッパでは古代以来、反ユダヤ人感情が存在していたが、十字軍運動が起こった時期に初めてユダヤ人共同体に対する組織的な暴力行為が行われた。 1096年の夏、ゴットシャルク、フォルクマーなどといった説教師に率いられた1万人のドイツ人たちは、ライン川周辺のヴォルムスやマインツでユダヤ人の虐殺を行った。 この事件を「最初のホロコースト」という者もある。
十字軍運動に参加した人々の中のある者は言葉たくみに、ユダヤ人とイスラム教徒はみなキリストの敵であるといい、敵はキリスト教に改宗させるか、剣を取って戦うかしなければならないと訴えた。 聴衆にとって「戦う」というのは、相手を死に至らしめることと同義であった。 キリスト教徒対異教徒という構図が出来上がると、一部の人々の目に身近な異教徒であるユダヤ人の存在が映った。 なぜ異教徒を倒すためにわざわざ遠方に赴かなければならないのか、ここに異教徒がいるではないか、しかもキリストを十字架につけたユダヤ人たちが、というのが彼らの考えであった。
ユダヤ人を求めてドイツ人たちはライン川をさかのぼり、大きなユダヤ人共同体のあったケルンを目指した。 そこでユダヤ人たちにキリスト教に改宗するか、ユダヤ教徒のまま死ぬかの二者択一を迫った。 ユダヤ人の多くは改宗の屈辱よりは誇りある死を選んだ。 虐殺のニュースはすぐに各地のユダヤ人共同体に伝わった。 狂気の群集がユダヤ人共同体に近づくと、恐怖のあまり自ら死を選ぶものもあった。

-
諸侯による十字軍活動
十字軍運動の盛り上がりの中で、民衆十字軍が壊滅し、ユダヤ人への迫害が行われたが、その後に続いたのは1096年にヨーロッパを出発した貴族や諸侯たちによる軍事行動である。 このグループがいわゆる十字軍の本隊であり、西欧各地の多数の諸侯が集まって聖地を目指した。 諸侯たちの中で特に主導的な役割を果たすことになったのは、教皇使節であったル・ピュイのアデマール司教、南フランスのプロヴァンス人諸侯のまとめ役だったトゥールーズ伯レーモン4世(レーモン・ド・サン・ジル)、南イタリアのノルマン人のまとめ役を務めたボエモンの3人であった。 ほかにもロレーヌ人のゴドフロワ・ド・ブイヨン、ブローニュ伯ウスタシュ、ボードゥアンの3兄弟、フランドル伯ロベール2世、ノルマンディー公ロベール、ブロワ伯エティエンヌ、フランス王フィリップ1世の弟ユーグ・ド・ヴェルマンドワ(フィリップ1世は直前に破門され参加できなかったため、その代理)など、そうそうたる顔ぶれが揃っていた。

-
東方への進軍
諸侯と騎士からなる十字軍本隊は、計画通り1096年8月にヨーロッパを各自出発し、ゴドフロワ・ド・ブイヨンらはハンガリーからブルガリアを経由し、ユーグ・ド・ヴェルマンドワやノルマンディー公、フランドル伯らはイタリアからアドリア海を渡り、ギリシャを東西に横断した。 彼らは12月にコンスタンティノープルの城壁外に集結したが、それは民衆十字軍壊滅の2ヶ月後のことであった。 この本隊にも騎士だけでなく、必要な装備にも事欠く多くの一般市民が付き従っていた。 民衆十字軍の壊滅から生還した隠者ピエールも、民衆十字軍の生き残りの人々と共にこの本隊に合流したが、再び一般市民たちの統率者に祭り上げられた。 市民たちは小グループに編成しなおされて行動した。
なんとかコンスタンティノープルにたどりついた十字軍将兵にはすでに食料が乏しかったが、呼びかけ人の皇帝アレクシオス1世から食料が提供されるものと考えていた。 しかしアレクシオス1世はまったく統制のとれていない民衆十字軍を見ていたことや、軍勢の中にかつての宿敵であった(東ローマ領だった南イタリアを奪った)ノルマン人のボエモンがいたことから猜疑心を抱き、指導者たちに向かって、食料を提供する代わりに、自分に臣下として忠誠の誓いを立て、さらに占領した土地はすべて東ローマ帝国に引き渡すことを誓うよう求めた。 食料に乏しかった指導者たちに、これを断る選択肢は残されていなかったが、十字軍指導者たちと皇帝の間でギリギリの駆け引きが続けられ、武器を取っての小競り合いにまでなったが、なんとか双方が妥協に至った。

-
ニカイア攻囲戦
詳細は「ニカイア攻囲戦」を参照
アレクシオスから小アジアを案内する部隊を提供され、十字軍将兵はボスポラス海峡を渡り、最初の目標としていた都市ニカイアにたどりついた。 ニカイアはかつては東ローマ帝国の都市で、住民のほとんどはギリシア人であったが、ルーム・セルジューク朝の手に落ち、その首都となっていた。 十字軍は協議の上でニカイアの攻囲を開始し、力攻めを避け、水源を封鎖して兵糧攻めを行うことにした。 クルチ・アルスラーン1世はアナトリア高原のアンカラ近郊マラティヤで、当地のセルジューク系ダニシュメンド朝の王、賢者ダニシュメンド(Danishmend Gazi)と戦っていたが、重武装の大軍が首都を包囲していると聞き、あわてて引き返し戦うものの、多大な損害を出し、これ以上この強力な軍団と戦えばルーム・セルジューク朝自体が危機に陥ると考え、城内に立て篭もるギリシア人住民やテュルク系守備隊に東ローマ帝国への降伏を薦め、内陸深くのコンヤ(イコニウム)に退却することを決めた。 この状況を伝え聞いたアレクシオス1世は、十字軍がニカイアを陥落させた場合は略奪を行うに違いないと考え、ひそかに使者を派遣してニカイアの指導者に降伏するよう交渉を行った。 守備隊は説得され、住民らは夜ひそかに東ローマ兵を城に入れた。
1097年7月19日の朝、街を囲んでいた十字軍将兵は目覚めて仰天した。 城壁に東ローマ帝国の旗がひるがえっていたからである。 それだけでなく、アレクシオスの指示で十字軍将兵は城内に入ることが許されなかった。 十字軍将兵たちがアレクシオスに裏切られる形になったこの事件は、十字軍と東ローマ帝国の関係に修復できないほどの亀裂をもたらした。 互いの不信感が決定的になったのである。 十字軍はニカイアを離れ、一路エルサレムを目指した。 東ローマ帝国軍は十字軍の道案内をしながら、彼らの助けを借りて小アジアの西半分の領土をセルジュークから回復していった。 一方、クルチ・アルスラーン1世はコンヤで軍勢を立て直し、セルジュークの諸王に救援とジハードを呼びかけた。

-
ドリュラエウムの戦い
詳細は「ドリュラエウムの戦い」を参照
十字軍諸隊は、案内役の東ローマ帝国将軍タティキオス(Tatikios)の兵に伴われてコンヤへ向かう途中ドリュラエウムにいたが、その道中ボエモンの部隊がクルチ・アルスラーン1世とダニシュメンドの連合軍の急襲を受けた。 他の部隊はボエモンを救出し、ドリュラエウムでトルコ軍との戦闘状態に入った。 これをドリュラエウムの戦い(Battle of Dorylaeum)という。 この戦いにおいてゴドフロワ・ド・ブイヨンはトルコ軍の包囲を受けて窮地に陥ったが、教皇使節アデマールが軍勢を率いて救援に駆けつけたため救われた。 トルコ軍は十字軍の騎士たちの分厚い甲冑に対して、伝来の弓矢戦法を生かすことができず、次々現れる援軍の前に、逃げおおせることのできた騎兵を除いて壊滅した。 アデマールがトルコ軍を撃退したことで、十字軍はアンティオキア目指して小アジアを進めるようになった。
小アジア進軍は十字軍将兵にとって苦痛に満ちたものとなった。 夏の暑さと水や食料の不足から多くの兵が倒れ、軍馬も失った。 彼らはアナトリア横断に100日もかけてしまった。 小アジアで暮らすキリスト教徒たちが時折、十字軍将兵に食料や金銭の援助をしたが、十字軍は略奪によって物資を得ることが多かった。 十字軍全体の指揮を誰が執るのかということに関しては結論が出ることはなかった。 全体の統率ができるほど強力な指導者がいなかったためであるが、全体の中ではレーモン・ド・サン・ジルとアデマールが指導者的地位を認められていた。
アルメニア人諸侯が治めるキリキア地方を通過したところで、ブルゴーニュ伯ボードゥアンは手勢を率いて十字軍と別れ、ユーフラテス川沿いを北に進んでアルメニア人の多く住む上流部(現在のシリア北部からトルコ南東部の地方)へ向かった。 1098年、エデッサ(現在のトルコ領ウルファ)にたどり着いたボードゥアンは統治者ソロスに自らを養子、後継者と認めさせることに成功した。 ソロスはギリシャ正教徒の統治者であったため、非カルケドン派であるアルメニア正教を奉ずるアルメニア民衆からは嫌悪されていた。 市民の暴動によってソロスが命を落とすと、ボードワンはエデッサの統治者の座に就き、ここに最初の十字軍国家であるエデッサ伯国が成立した。
セフレはすばらしいことがいっぱいあります。
|