第1回十字軍

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    第1回十字軍

    第1回十字軍
    第1回十字軍(だいいっかいじゅうじぐん、1096年 - 1099年)は、1095年にローマ教皇ウルバヌス2世の呼びかけにより、キリスト教の聖地エルサレムの回復のために始められた軍事行動。
    クレルモンにおける教会会議の最後に行われた聖地回復支援の短い呼びかけが、当時の民衆の宗教意識の高まりとあいまって西欧の国々を巻き込む一大運動へと発展した。
    十字軍運動においては、一般に考えられているような騎士たちだけではなく一般民衆もエルサレムへ向かった。
    彼らは戦闘の末にイスラム教徒を破って、同地を1099年7月15日に占領した。
    そして、エルサレム王国など「十字軍国家」と呼ばれる一群の国家群がパレスティナに出現した。
    西欧諸国が初めて連携して共通の目標に取り組んだという点で、十字軍運動は欧州史における一大ターニングポイントとなった。
    そしていわゆる「十字軍」を名乗った運動で当初の目的を達成することができたのは、この第1回十字軍が最初で最後となる。


    歴史的背景

    歴史的背景
    十字軍運動を理解するためには、まず中世初期の西欧の状況を理解する必要がある。
    カロリング朝の分裂後、ヴァイキングとマジャル人がキリスト教化されたことで、西ヨーロッパのローマ・カトリック教圏はようやくの安定をみた。
    ところが争いがなくなると、今度は戦闘によって生計を立てていた人々が手持ち無沙汰になり、互いに私闘を繰り返したり、農民の生活を脅かすようになった。
    またこの時期に、ヨーロッパは寒冷な気候から温暖な気候に変化し(中世の温暖期)、11世紀半ば以降には農業生産力の増加、出生数の増加などが見られる未曾有の豊かな時代に入りつつあった。
    富や民衆のエネルギーの拡大は、商人階級の増加や下克上、盛期ロマネスク建築の大聖堂や新都市の建設、辺境への移住と開墾、聖遺物信仰や聖遺物収集熱の拡大、サンチャゴ・デ・コンポステラやエルサレムへの巡礼などへとあふれ出した。
    やがて、このエネルギーが非キリスト教徒に向けられることになる。
    イベリア半島で行われていたレコンキスタはその代表的な動きである。
    手持ち無沙汰だった騎士や傭兵たちは、イスラム教徒との戦闘という共通の目的を見出した。
    ノルマン人とイスラム教徒がシチリア島の支配をめぐって争い、ピサ、ジェノヴァ、アラゴンといった国々はマヨルカ島やサルデーニャ島でイスラム教徒と争い、イタリアやイベリア半島の沿岸地域からイスラム教徒を駆逐した。
    このように、十字軍運動が始まるはるか前から、西欧諸国とイスラム教徒の戦いはすでに始まっていたのである。
    地中海におけるイスラム教徒との争いの中で、カトリック信者の中に、キリスト自身が歩いた聖地エルサレムの奪回という新たな目標が芽生え始めていた。
    1074年、教皇グレゴリウス7世は「キリストの騎士たち」に向かい、イスラム教徒の猛威に脅かされていた東ローマ帝国への支援を訴えた。
    東ローマ帝国救援という呼びかけ自体は西欧の人々を動かすことはなかったが、11世紀に入ってキリスト教徒の間でエルサレムへの巡礼が流行していたこともあいまって、西欧の人々ははるか東方へ目を向けるようになった。
    このような流れの中で、教皇ウルバヌス2世が訴えたエルサレム奪回という目標は、軍人に限らず西欧諸国の広汎な人々の熱狂を呼び起こすこととなった。
    数百年来、鬱屈していた軍事的エネルギーが、宗教的情熱と結びついて燃え上がったのである。


    11世紀後半の中近東情勢
    11世紀後半の中近東情勢
    西欧諸国とイスラム諸国の間には東ローマ帝国が存在していた。
    東ローマ帝国はキリスト教国ではあったが、正教という別の教派に属し、カトリック教会と北地中海沿岸の旧ローマ帝国支配域を大きく二分していた。
    皇帝アレクシオス1世コムネノスの下で、帝国は西にヨーロッパと隣接し、東にイスラム教国家と接していた。
    さらに北からはノルマン人の圧迫も受けていた。
    アレクシオス1世はイスラム教徒に奪われた古来からの領土である小アジア(アナトリア半島)の奪還を悲願としていた。
    当時のイスラム諸国はそれほど緊密に連携していなかったことが第1回十字軍の行動を容易にすることになる。
    アナトリア半島とシリアは、中央アジア・イラン高原からメソポタミア地方にかけてを本拠地とし、スンニ派を信奉するセルジューク朝によって治められていた。
    セルジューク朝もかつては大帝国であったが、この時代は小国家のゆるやかな連合体になっていた。
    かつてセルジューク朝を統合して最盛期を現出したスルタン、アルプ・アルスラーンは1071年に東ローマ帝国軍を破ってアナトリア半島を支配下におさめたが、1092年に次代スルタンのマリク・シャーが亡くなると、セルジューク朝は内紛続きで事実上の分裂状態になっており、セルジューク系の各地方君主たちは互いに疑心暗鬼となり相手の隙につけこんでは戦う有様だった。
    アナトリア方面はセルジューク朝の本家ではなく、分家のルーム・セルジューク朝の統治下にあり、シリアを統治するセルジューク朝分家のシリア・セルジューク朝は跡を継いだ兄弟の間で深刻な分裂状態にあった。
    名義上はセルジューク朝の版図の一地方でありながら、実質的にセルジューク家の一族によってばらばらに支配されていたのが北部メソポタミアとパレスティナ地方であった。
    一方、パレスティナの一部はエジプトを主な領土とするシーア派のファーティマ朝が統治していた。
    ファーティマ朝は台頭してきたセルジューク朝にシリアとパレスチナを奪われて以来争いを繰り返しており、中近東情勢に詳しくファーティマ朝とも対セルジュークの件で緊密な連絡を取っていたアレクシオス皇帝は、十字軍にエルサレム攻撃にあたってファーティマ朝と手を組むよう勧めていた。
    ムスタアリー(Al-Musta'li)に率いられていたファーティマ朝はセルジューク朝によって1076年にエルサレムを奪い取られ、十字軍到来寸前の1098年にようやく取り戻したばかりであった。
    ファーティマ朝の宮廷ではエルサレム占領を目指すという十字軍の意図に気づかず、エルサレムに到着する寸前までセルジューク朝そのものを攻撃に来るものとばかり考えていた。
       

    クレルモン教会会議
    クレルモン教会会議
    1095年3月、アレクシオス1世はピアチェンツァの教会会議に特使を派遣、時の教皇ウルバヌス2世に対セルジューク朝戦への援助を求めた。
    ウルバヌス2世はこれを快く受け入れた。
    カトリック教会の側ではつねに正教会が自らへ帰属する形としての和解を望んでおり、教皇は今こそ正教会との不幸な決裂を乗り越え、ローマ教皇の下に統一される形での教会再合同の好機がおとずれたと考えた。
    ウルバヌス2世は1095年の春から夏にかけ、半年以上にわたりフランス中南部を遊説し、東方への軍団派遣の構想を練ってゆく。
    1095年11月にフランスのクレルモンで行われた教会会議で、教皇は重大発表を行うと宣言した。
    発表の日、居合わせたフランスの貴族たちと聖職者に向かって教皇は、イスラム教徒の手から聖地エルサレムの管理権を奪回しようと訴えた。
    彼は、人口が増えすぎたフランス人にとって聖地こそがまさに「乳と蜜の流れる土地」であると訴え、この行動に参加するものには地上において天において報いが与えられること、もし軍事行動の中で命を落としても免償が与えられることを告げた。
    この呼びかけに居合わせた群集の熱気は高まり、「神のみむねのままに!」という叫びがこだました。
    ウルバヌス2世の十字軍勧誘説教は、ヨーロッパの歴史に残る名演説の一つであるといわれるが、第1回十字軍の成功後に記録が書かれたため、実際にどんなことを教皇が言ったのか、現代では知ることが難しい。
    ただ一つ間違いないことは、教皇の訴えが群集の熱狂を引き起こし、教皇の意図を上回る規模の反響が起こったということである。
    教皇は1095年から1096年にかけて、フランス、イタリア、ドイツといった各地の司教に同じような内容の呼びかけを行わせた。
    その際、この行動には女性、修道士、病気の者は参加することができないと付け加えていたが、すでに人々の熱狂が高まりすぎて聞き入れられなかった。
    この呼びかけを聞いて熱狂したのは、騎士階級の人々よりも農民や庶民が多かった。
    彼らはエルサレムへ赴くだけの経済的余裕も戦闘技術もなかったが、宗教的情熱に身を焦がし、日常の抑圧から逃れたいと考えていたため、そんなことは問題ではなかった。
    教会の指導者や領主たちがどれだけ厳しく禁じても、情熱的な庶民たちが聖地へ向かうことは止めることができなかった。

    人妻
    民衆十字軍
    ウルバヌス2世の考えた十字軍計画では、軍隊の出発は聖母被昇天の祝日である1096年8月15日を期していた。
    しかしそれより数ヶ月前に教皇の計画に入っていなかったグループ、すなわち農民たちや貧しい下級騎士たちが、勝手に集まってエルサレム目指して出発してしまっていた。
    彼らはアミアンのピエールなる自称修道士、隠者ピエールを指導者と仰いで聖地を目指した。
    大した人数は集まるまいという大方の予想を裏切り、このグループは10万人という規模に膨れ上がっていた。
    しかし、その多くは戦闘技術など全く知らない人々であり、子供も多く含まれていた。
    これを「民衆十字軍」という。
    十字軍とはいっても、彼らの多くは別に戦闘を望んでいたわけではなく、巡礼というくらいの気持ちで参加していたのが実情であった。
    民衆十字軍は人数のみ多く、全く統制がとれていなかった。
    さらに(東欧出身の人々が多かったと推測されているが)参加者は独自の生活習慣に従っていたため、聖地にたどり着く前のヨーロッパの国を移動している時点でトラブルが頻発した。
    彼らはたどりついた町々で食料や水、各種の物資を得ようとした。
    無料ではなくとも、低価格で必需品を購入できるものと考えていた。
    しかし、突如現れた民衆の群れに、町の人々がいつも温かな対応を見せるとは限らなかった。
    これが原因となって民衆十字軍と滞在先の人々はしばしば諍いを起こした。
    ドナウ川に沿って南を目指した民衆十字軍の一行だったが、一部のものがハンガリー領内で略奪行動を行ったため、ハンガリー兵の攻撃を受けた。
    同じことがブルガリアや東ローマ帝国領内でも繰り返された。
    これによって参加者の1/4にものぼる人々が殺害された。
    生き残った人々は8月にコンスタンティノープルにたどりついた。
    しかし、人々が感慨にふけっていられたのもわずかの間だった。
    突如あらわれた大人数の外国人集団に、コンスタンティノープルの市民との間の緊張が高まったからである。
    当時、コンスタンティノープルにはフランスやイタリアからの正規の軍団も集結しつつあったため、皇帝アレクシオスは厄払いとばかりに民衆十字軍の一行を首都から追い出して小アジアへ送り出した。
    小アジアを移動している間に、民衆十字軍は仲間割れを起こして小グループに分裂した。
    民衆十字軍は間もなくルーム・セルジューク朝領内に入って、ギリシア人の農村を略奪しながら首都ニカイアを目指したが、クルチ・アルスラーン1世率いるルーム・セルジューク朝軍精鋭のテュルク系騎兵部隊の包囲と攻撃を受けて、飢えと乾きに苦しみなすすべもなくほとんどが殺害され、女は奴隷として売られた。
    隠者ピエールは生き残ってヨーロッパに戻り、第1回十字軍の本隊に参加している。
    人妻の献身的な貢献は忘れてはいけない。


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