第1回十字軍3

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十字軍
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    第1回十字軍3

    アンティオキア包囲
    詳細は「アンティオキア攻囲戦」を参照
    十字軍本隊は1097年10月、コンスタンティノープルとエルサレムの中間点にあたる都市アンティオキアに到着し、これを包囲した。
    アンティオキアは無数の監視塔のある堅固な城壁を持ち、西はオロンテス川、東は徐々に山を形成する攻略困難な地形で、頂上には砦を持ち、落とすに難く守るに容易い都市であった。
    アンティオキアの周囲を全て包囲できるほどの軍勢がなかったため、都市に対する補給を許すことになり、包囲戦は8ヶ月の長きに及んだ。
    アンティオキアの包囲が長引き、十字軍将兵が地震と大雨に怯え、飢餓に苦しみ人肉食まで行う中で、ボエモンはアンティオキアを自らのものにしたいという意志を隠すこともなく公言するようになった。
    領主ヤギ・シヤーンと息子シャムス・アル・ダウラは果敢な突撃を繰り返し、都市を守り抜いたが、包囲されたままの状態は打開できなかった。
    助けを求められる近隣の王は、シリア・セルジューク朝を分裂させて戦う2人の年若い兄弟のマリク(王)、北シリアのアレッポのリドワーンと南シリアのダマスカスのドゥカークしかいない。
    どちらも頼りにできる人物ではなく、2人とも一致協力して戦う気もなかった。
    領主の求めに2人は別々に軍を出し、どちらも損害を出して逃げ帰ってしまう。
    1098年5月、モースル(現在のイラク北部)のアタベク、ケルボガ(カルブーカ)がヤギ・シヤーンの頼みに応じ、大軍を率いてアンティオキア救援に出発した。
    しかし、途中でエデッサへ十字軍攻撃に立ち寄ってみたりと一向にアンティオキアに着かず、アンティオキア側にも焦りが出た。
    一方、敵に援軍が来ることを察知したボエモンは、モースル軍が到着して数で圧倒されるより前に陥落を急ごうと、アルメニア人衛兵を買収して城門を開かせることに成功した。
    6月3日、十字軍部隊はついに城内に突入し、火を放ち多数の市民を殺害した。
    領主ヤギ・シヤーンは城からの逃走中に倒れて死に、息子シャムスがなおも山頂の砦に立て篭もって戦った。
    十字軍将兵が勝利に酔ったのもつかの間、数日後にはやっとアンティオキアに到着したケルボガらの援軍に逆に包囲され、城内から出られなくなってしまった(もっとも、援軍は士気が低く、これは途中で軍を合流させたダマスカス王ドゥカークが、ケルボガがアンティオキア解放後にシリアで大きな顔をすることを恐れて、ケルボガの兵隊に彼の悪口を流しためであった)。
    この時、十字軍に参加していた一人の無名の修道士ペトルス・バルトロメオなる男が3日間の断食苦行によって、地下から十字架上のキリストを刺し貫いたという聖槍を発見したと言いだした。
    教皇使節アデマールなどのように笑止千万な話だと考えていたものがいた一方で、多くの将兵はこれこそイスラム教徒に対する勝利の前触れだと確信した。
    このことが影響したのか、十字軍将兵の士気は高まり、6月28日に城外に打って出た。
    ケルボガは城門を出る兵を個別撃破するチャンスを、後続の兵がまた城内に戻ってしまうとあえて避け、十字軍全軍が出たあとムスリム連合の大軍で一気に片をつけようとした。
    しかしダマスカス王ドゥカークらは相手が多すぎると次々に逃亡し、連合軍は崩壊した。
    当ての外れたケルボガが戦わず退却するところを十字軍は逃さず、撃破し潰走させ、大勝利を収めた。
    この戦いで2つのことが明らかになった。
    一つはシリアに十字軍を相手にできるムスリム勢力はもはや存在しない、もう一つはエデッサとアンティオキアの占領で十字軍の領土欲が満たされ、宗教的な情熱をもつ諸侯や大多数の庶民・騎士を除き、諸侯らの一部がエルサレムへの関心を見失い始めたことだった。
    ここにきてボエモンは、皇帝アレクシオスが十字軍部隊に何の援助もせず見捨てているため、(占領した都市はすべて皇帝に引き渡すという)誓いは無効であると主張しはじめた。
    ボエモンはその主張によってアンティオキアを我が物にしようとしていたのである。
    十字軍の指導者たちはこのボエモンの主張に関して紛糾し、進軍はストップした。
    さらにそこで疫病(おそらくチフス)の流行が軍勢を襲い、多くの兵や馬が命を落とした。
    疫病の犠牲者の中には教皇使節アデマールも含まれていた。
    諸侯は夏の行軍を避けるため冬を待つこととしたが、軍勢は統一した指揮系統を失いシリアにとどまったまま行き場を失った状態で、住民たちも食料の提供を拒んだ。
    1098年の末には、シリアの都市マアッラを陥落させた後、住民を殺戮し、異教徒に対する侮蔑か飢餓の余りか、犠牲者を鍋で煮たり串で焼いたりする人肉食事件が起こる。
    こうした迷走に、11月には諸侯らのアンティオキアでの会議に対し、巡礼者らがエルサレム行きを求めて突き上げを行う事件も起きた。
    1099年1月になってようやくトゥールーズ伯レーモンを中心にして指揮系統が回復し、アンティオキアの私有化をしつこく主張するボエモンを後に残して軍勢はエルサレムに向かった。
    ボエモンはアンティオキア公国建国を宣言、アンティオキア公ボエモン1世となる。


    エルサレム包囲

    エルサレム包囲
    詳細は「エルサレム攻囲戦 (1099年)」を参照
    中近東地域に入った十字軍はエルサレムを目指して南下した。
    トゥールーズ伯率いる主力部隊はオロンテス川沿いにシリア内陸を進み、エルサレム行きを渋るボエモン軍がようやく出てくるのをアルカで待ち、そこから山を越え地中海沿岸に出てレバノン海岸を進んだ。
    ゴドフロワ、ウスタシュ、ボードゥアンらはトゥールーズ伯に従うのを好まず、アルカからさらに内陸をヨルダン川渓谷へと進み、エルサレムで合流する。
    途中で組織的な抵抗はほとんどなかった。
    というのも、それまでに十字軍の通過した町や村の荒廃を聞き、セルジュークやアラブの地方有力者たちは、わざわざ争うよりも十字軍に宝物・食料・馬など物資や道案内を提供して、無難に通過させることを選んだからであった。
    東地中海有数の富裕な港、トリポリはその富のため略奪されようとしたが、まず付属都市の攻略に向かった十字軍は住民の必死の抵抗で手間取るうちに攻略をあきらめてしまい、助かったトリポリは多数の貢物で十字軍を送り出した。
    一方、エジプトのファーティマ朝は動揺していた。
    アンティオキア攻略中の十字軍に宰相アル・アフダルは使者を送り、シリアの南北分割統治を提案したものの、彼らはあくまでエルサレムの地位にこだわり、十字軍との同盟も不可侵条約も成り立たなかった。
    その後の交渉も十字軍側はすべてはね除け、エルサレムを軍で奪取することを宣言し、ついにファーティマ朝の北限境界を越えた。
    ファーティマ朝領内の港湾都市、サイダ(シドン)は抵抗して近郊の農地を略奪されたが、ベイルートやティール、アッカなどは十字軍をもてなして道案内し、途中の農村の住民たちはみな避難して抵抗しなかった。
    ファーティマ朝は、つい1年前にアンティオキア陥落後のセルジュークの弱体化に乗じてテュルク系の領主から聖都エルサレムを奪ったことを後悔し始めた。
    こうして1099年5月7日、軍勢はいよいよ目的地のエルサレム郊外に到着した。
    十字軍将兵たちは、目指すエルサレムを目の当たりにした感激に落涙を禁じえなかった。
    アンティオキア攻略と同様に十字軍はエルサレムの包囲を行い、攻城やぐらを建設し城壁を乗り越えようとした。
    しかしファーティマ朝の司令官イフティハール・アル・ダウラ(Iftikhar ad-Daula)は石油や硫黄を使った攻撃で、兵を満載した攻城やぐらに火を放って城を守り、一方の十字軍側は満足な食料の補給もなかったため、死者の数は増える一方となった。
    しかもファーティマ朝本国から宰相アル・アフダルらのムスリム軍援軍が迫っており、不十分な軍勢でエルサレム攻略は不可能かと思われた。
    その時、従軍していたペトルス・デジデリウスという司祭が、断食した上に裸足で9日間エルサレムの周りを回ればエルサレムの城壁は崩壊するという幻を見た、と主張し始めた。
    それは旧約聖書のエリコの陥落の故事を踏まえた発言であった。
    1099年7月8日、デジデリウスの後に従い、将兵たちはエルサレムの周りを回り始めた。
    7日目の7月15日、一同は城壁の弱点を発見してそこを打ち壊し、城内に入ることに成功した。
    城内の殺戮のさなか、イフティハールは砦の上で抗戦していたが、レーモン・ド・サン・ジルの提案を受け入れて降伏し、部下とともに無事アスカロンの港に脱出した。
    一方、城内に入った軍勢はエルサレム市民の虐殺を行い、イスラム教徒、ユダヤ教徒のみならず東方教会(正教会・東方諸教会)のキリスト教徒まで殺害した。
    ユダヤ教徒はシナゴーグに集まったが、十字軍は入り口を塞ぎ火を放って焼き殺した。
    多くのイスラム教徒はソロモン王の神殿跡(現在のアル・アクサモスク)に逃れたが、十字軍の軍勢はそのほとんどを殺害している。
    著者不明の十字軍の従軍記「ゲスタ・フランコルム」によると虐殺の結果、「血がひざの高さに達するほどになった」と書いているが、さすがにこれは誇張であろう。
    市民の殺害が一段落すると、軍勢の指導者となっていたゴドフロワ・ド・ブイヨンは「アドヴォカトゥス・サンクティ・セプルクリ」(聖墳墓の守護者)に任ぜられた。
    これはゴドフロワが、王であるキリストが命を落とした場所の王になることを恐れ多いと拒んだからである。
    正教会(ギリシャ正教)、非カルケドン派(アルメニア使徒教会、コプト正教会など)各教派のエルサレム総主教たちは追放され、カトリックの総大司教が立てられた。
    キリストが架けられた「聖十字架」など聖遺物も、司祭たちを拷問して在り処を話させて手に入れた。
    ゴドフロワはその後、エルサレム守備にやってきたもののすでに手遅れでエルサレム手前でとどまっていた宰相アル・アフダルらのファーティマ朝の軍勢をアスカロンの戦い(Battle of Ascalon)で急襲し破った。
    以後エルサレムを拠点にパレスチナやシリア各地を襲ったが、1100年にエルサレムでこの世を去った。
    弟のエデッサ伯ボードゥアン(ボードゥアン1世)が後を継いで「エルサレム王」を名乗った。
    ここに十字軍国家「エルサレム王国」が誕生する。


    十字軍国家の樹立
    1101年の十字軍と十字軍国家の樹立
    エルサレムの占領と聖墳墓(キリストの墓)の奪回によって、十字軍活動は当初の目的を達成した。
    このニュースがヨーロッパに伝わると、途中で脱落して帰国した騎士たちや、そもそも十字軍に参加しなかった騎士たちは激しい非難と嘲笑にさらされ、聖職者による破門さえほのめかされた。
    一方、エルサレムを占領した将兵たちも大部分は故郷に凱旋した。
    シャルトルのフルシェルによれば、1100年のエルサレム王国には数百名の兵力しか残っていなかったという。
    また、1100年に小アジアでまたもマラティアを攻めていたダニシュメンド王を討とうとしたアンティオキア公ボエモン1世は、逆にダニシュメンドの捕虜となってしまう。
    十字軍は手薄な状態だったが、ムスリムも内輪もめに終始していたので、地盤を固める時間はあった。
    アンティオキア公国の後継者はボエモン1世の勇猛な甥で、亡きゴドフロワのもとで戦ってきたタンクレードとなり、彼が後にアンティオキア公国をシリアに君臨する強国とする。
    1101年に入ると、ヨーロッパにおいて(途中で脱落した)ブロワ公エティエンヌやユーグ・ド・ヴェルマンドワによって新たな軍勢が組織され、他の諸侯との不仲でコンスタンティノープルにいたレーモン・ド・サンジルと合流し、女子供を含め10万人近い軍勢が再びエルサレムを目指した(これを1101年の十字軍ともいう)。
    軍勢は小アジアでアンカラを陥落させたが、捕虜のアンティオキア公ボエモン1世を救おうとして向かった先で、クルチ・アルスラーン1世とダニシュメンドのセルジューク連合軍にさんざんに打ち破られて壊滅した。
    なんとか生きてシリアに達した者はトリポリの港の攻撃に取り掛かった。
    トリポリ領主はシリア・セルジューク朝のダマスカス王ドゥカークと組んで、わずかな数に減った十字軍騎兵を撃退しようとしたが、ドゥカークは以前、王となるためエルサレムに向かうエデッサ伯ボードゥアンを討とうとして、トリポリ領主のボードゥアンへの密通により失敗した恨みを忘れていなかった。
    ドゥカークの軍は十字軍を見ただけで退却し、残されたトリポリ軍は大敗した。
    こうしてレーモン・ド・サンジルは、後々まで十字軍の強力な補給と上陸の拠点となるトリポリ伯国を郊外の城に誕生させることに成功した。
    エルサレムに到着した騎士たちは、エルサレム王国の守りを固めることになった。
    やがてイタリアの商人たちがシリアの諸港に来航して物資を補給し始め、テンプル騎士団、病院騎士団(聖ヨハネ騎士団)といった騎士修道会が組織されて、エルサレム王国を防衛することになった。
       

    第1回十字軍の成功後
    第1回十字軍の成功後
    第1回十字軍は、エルサレム王国、アンティオキア公国、エデッサ伯国、トリポリ伯国の十字軍国家と呼ばれる国家群をパレスティナとシリアに成立させて、巡礼の保護と聖墳墓の守護という宗教的目的を達成した。
    第1回十字軍が成功したことは、誰にとっても予想外な出来事だった。
    君主たちは西欧の安定によって失われていた武力の矛先を東方に見出し、占領地から得た宝物によって遠征軍は富を得ることができた。
    また、十字軍国家の防衛やこれらの国々との交易で大きな役割を果たしたのはジェノヴァやヴェネツィアといった海洋都市国家である。
    これらイタリア諸都市は占領地との交易を盛んに行い、東西交易(レヴァント貿易)で大いに利益を得た。
    エルサレムから西欧に帰ってきた戦士たちは、英雄視されることになった。
    フランドルのロベール2世はエルサレムにちなんで「ヒエロソリュマタヌス」と呼ばれた。
    ゴドフロワ・ド・ブイヨンの生涯は死後数年を経たずして伝説となった。
    その一方で、十字軍将兵の不在はその間の西欧情勢に変動をもたらしていた。
    例えば、ノルマンディー地方は領主ロベール・カルトゥース(ノルマンディー公ロベール)がいない間に弟ヘンリー1世の手に渡っていた。
    当然帰ってきた兄はこれをめぐって弟と争い、1106年にはティンチェブライの戦い (Battle of Tinchebray) が引き起こされている。
    また、東ローマ帝国は十字軍国家が設立されたことで、直接にイスラム諸国からの圧迫を受けることがなくなったが、今度は十字軍国家やキリキア・アルメニア王国と対立することになった。
    教皇庁は、十字軍の掛け声によってばらばらだった西欧のキリスト教徒をまとめあげることができること、戦争が宗教的活動となりうることを発見した。
    これはそれまでのキリスト教にはなかった発想であった。
    つまりそれまで修道者だけのものとされていた宗教的な使命を騎士たちも持つことができるようになったのである。
    一方、正教会とカトリックの和解が十字軍を唱えたカトリック教会指導者側の当初の動機の一つだったにもかかわらず、両者の間はかえって十字軍により緊張した。
    両教会はそれまで、教義上は分裂しつつも名目の上では一体であり、互いの既存権益を尊重しつつ完全な決裂には至っていなかったが、十字軍が正教会のエルサレム総主教を追放し、カトリックの総大司教を置いたことで、この微妙な関係は崩れ、かえって緊張が深まった。
    この緊張はコンスタンティノープルが暴行・略奪される第4回十字軍において頂点に達することになる。
    イスラム諸国は危機に際しても依然として互いに猜疑心が深く、国の奪い合いや領主同士の争いや世継ぎ争いをやめず、共闘体制を作ることができなかった。
    それどころか自分たちの争いに十字軍国家を利用するため、これらと同盟を結ぶ始末だった。
    シリアやパレスチナの宗教代表者たちはバグダードにいるカリフや大セルジューク朝本家のスルタンらに直訴に行くが、彼らは無力で内輪もめに終始し、とてもジハードに結集するどころではなかった。
    このあとムスリムの軍はいくつかの戦いで散発的に十字軍を破るものの、その追放を企図する者はいなかった。
    イスラム教国が結集するようになるのは12世紀半ばのモースルとアレッポの領主ザンギー、その息子ヌールッディーンの時代を、また西欧人を蹴散らすようになるのは彼らの部下だったサラディンの時代である12世紀終わりを待たなければならない。

    不倫
    十字軍としての意識
    当時十字軍という呼び名は無く、単に「十字をつけた者」と呼ばれた。
    「十字軍」という言葉が最初に現れるのは第1回十字軍の100年ほど後である。
    彼らは、聖地を奪回するイスラム教徒と戦うという意識以外に、免償(罪の償いの免除)を求めてエルサレムへ向かう「巡礼者」(ペレグリナトーレス)という意識も強かった。
     
    十字軍運動の魅力の秘密
    もともと十字軍は一部の騎士に対する呼びかけであったが、やがて膨大な人数を動員して移民活動のような状況を呈することになった。
    このことからわかるのは、十字軍への呼びかけというのは当時のキリスト教徒にとってとても魅力のある言葉だったということである。
    西ヨーロッパ中世におけるキリスト教徒の2つの生き方、聖なる戦士と巡礼者が一つに結びついたのである。
    戦闘に参加した者に免償が与えられる、あるいは戦闘で死んだ者が殉教者となりうるというのは、十字軍運動の中で初めて生まれた概念であった。
    そして十字軍に参加することで与えられる免償は、エルサレムへ詣でるという巡礼者としての免償と、キリスト教戦士として戦うという免償の二重の意味があるため、生き残っても死んでもどちらにせよ免償を受けられるというのが魅力であった。
    また、下級騎士たちは封建制度の息苦しさから逃れようとし、農民や職人たちも退屈で困難な日常から逃れたいという気持ちを持っていた。
    このように宗教的なものから、世俗的なもの、心理的なものまで、さまざまな人々がさまざまな動機によって十字軍運動に身を投じたのである。
     
    霊性と世俗の間
    かつて、十字軍の主要な従軍者たちは貴族でも相続権を持たない子弟たちか、また貧しい下級騎士たちが一山あてようと財産目当てで志願したという十字軍観があった。
    一方では十字軍運動に参加した当時の人々にとって重要なのは、地上の富だけでなく霊的(精神的)な富であったとの考えもある。
    一般的には十字軍士を駆り立てたものは、宗教的情熱、名誉欲、冒険、領土・財産欲の組み合わせであり、その比重は人と時代により違う。
    第1回十字軍は第4回以降の十字軍より宗教的情熱は強いが、ノルマン騎士の場合は冒険、領土・財産欲の比重が高い。
    庶民の参加者は宗教的情熱が高く、北フランス貴族の場合は名誉欲が強かった。
    しかし、最近の研究の一つは、宗教的情熱は従来想像された以上に強かったのではないかと述べている。
    ケンブリッジ大学の歴史学者ジョナサン・ライリー・スミスは自身の研究によって、十字軍への参加が非常な出費を強いるものであったことを明らかにしている。
    特に中心的な存在であった諸侯たち、ヴェルマンドゥワのユーグやノルマンディー公ロベール、トゥールーズ伯レーモン・ド・サンジルなどは資産を売り払ってまで十字軍の従軍費用を捻出している。
    現世的な富よりも宗教的な情熱が騎士たちを動かしたことの証左として、ゴドフロワ・ド・ブイヨンと弟のブルゴーニュ伯ボードゥアンが、かつて教会と争ったことの償いとして、自らの土地を教会に寄進して出発したことが挙げられる。
    もちろんその寄進記録は聖職者が書いたもので、ゴドフロワ自身が書いたものではないため、信仰深い騎士として美化している部分はあるものの、2人が財産を寄付した事実に変わりはない。
    さらに貧しい下級騎士たちは寄付を受けるか、裕福な騎士の世話になるかしないと十字軍に参加できなかった。
    たとえばボエモンの甥で後のアンティオキア公タンクレードも叔父に仕えることを条件に十字軍に参加している。
    寄進や慈善行為の支えによって行われた第1回十字軍とは対照的に、後の十字軍は特定の裕福な王や皇帝による主導や十字軍税の援助によって行われている。
    不倫が足りないのかもしれません。


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